商品詳細 サイズ口径13.2×11.6cm 直径19cm 高さ14.5cm 付属品共箱、栞 商品ランクA 状態使用感なく、とても綺麗な状態です。
商品詳細ランク S新品同様品。
撮影のために開封したものや、開封はしたが未使用のままきれいに保管されていたもの A未使用、展示品。
未使用ではあるが、保管、展示品などにより、新品同様とは異なるもの B一見して目立った消耗はないが、多少の汚れ、きずなどがあるもの C一見してわかるused品。
目立ったきずやはげなどの消耗があるもの。
D難あり。
かけや欠品など明らかに目立った消耗があるもの。
魅惑のラスター彩 1917年 、加藤卓男は五代目 加藤幸兵衛の長男として生まれました。
早くから父の指導の下、陶芸技法の基礎を幅広く習得していましたが、 第二次世界大戦の従軍中の被爆で、10年間の療養生活をおくりました。
療養の末に体調を回復すると、1961年 44歳の時にフィンランド政府の招きで フィンランド工芸美術学校に留学をします。
彼は若いころ目にした写真集で、自身の専門である美濃焼とは対照的な 独特の歴史と様式をもつラスター彩に強い興味を抱いていました。
そのためフィンランド留学中の夏休みを利用して、 ペルシャ陶器研究のために初めてイランを訪れ、実際の作品を目の当たりにしました。
やはりペルシャ陶器は氏の心を惹きつけ、博物館で青釉、三彩など古代の作品を夢中で眺める中、 最も印象に残ったのがラスター彩だったそうです。
イラン各地の窯場をめぐった氏は窯場に散在する七色に輝くラスター彩の陶片に夢中になりました。
その後も考古学博物館や各地の古窯を訪ね、 古代ペルシャ陶器研究をするため幾度も留学を重ねました。
研究を進める中で加藤は、イスラム文化の衰退とともに失われてしまった、 ラスター彩陶器の復元を決意したのでした。
失われた技術を求めて ペルシャ陶器は気品に満ちて、非常に高度な技術を要しますが、 イスラム文化とともにその製法は数世紀前に途絶えたきりでした。
そして世界のどこにもその製法を解明した者はいなかったのです。
ラスター彩の製法については釉薬の組成や作り方などの基本的な情報すら全く残っていませんでした。
その上、博物館の所蔵品を詳しく調べても、ほとんど何もわからなかったのです。
また現在でもラスター彩の洋食器というのをよく見かけますが、 世界各地のラスター彩というのも技法が異なるようで参考にはなりませんでした。
1968年、テヘランの大学を訪れた際に加藤は ペルシャ陶器研究の第一人者だった故アーサー・アップハム・ポープ教授の 研究を知ることになります。
ポープ教授が残した膨大な資料には釉薬や焼成、窯の設計など ラスター彩の詳細な製法が残されていました。
そして、これまでの自分のやり方がまったく見当違いだったことに気づいたのです。
ペルシャ陶器の粘土は中国や日本で用いられるものと異なり 釉薬にも東アジアでは使わない成分が含まれており さらに焼成は小さな窯で低温で行われていた。
加藤はそこから着実に研究成果を上げ、 数年で長年の夢であったラスター彩の復元に成功した。
里帰りを夢見て その知らせに感銘を受けたイランの考古学研究センター所長は イラン国立博物館での展示会開催に協力を申し出ました。
加藤の最大の目標はラスター彩の作品を故郷に帰還させることだったのです。
しかし、展示会も間近のころイラン革命が勃発、 後日のバグダッドでの展示会もイラン・イラク戦争にて断念することに。
加藤は現地で古代モスクの欠損したタイルや装飾に用いる作品を 復元することも望んでいたために、ひどく落胆しました。
その間にも国内では宮内庁正倉院より (奈良三彩の世界最古の作品といわれる)正倉院三彩の制作を依頼されていました。
復元の仕事は、8世紀当時の技法を踏襲しなければならず 創作品の制作よりもはるかに難易度が高く 約10年を費やし復元を成功させました。
一方ペルシャ陶器は、 イスタンブールの国際フェスティバルで個展を開くことができ、 1995年にはペルシャ陶器や正倉院三彩の復元の功績により 加藤の人間国宝の認定も決まりましたが、 イランを再び訪れることはできずに2005年に亡くなりました。
それは残念ではありますが加藤の死後、 子である7代目幸兵衛はイラン外務次官である アラグチ氏の協力によりイランでの初の個展を開催できたそうです。
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ショップ | くらしのくら楽天市場店 |
税込価格 | 1,320,000円 |